日本語
」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前は首縊りの力学と云う研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊っちゃあむずかしいですが、首縊りの力学なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺う。悲しい事に力学と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り易いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶと云う論文を書いた事があります」「団栗なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空也餅がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子を使わないんでしょう」「今度逢ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の性が悪いと思われますが、如何なものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌があるよ。あれぎり、まだ填めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳の夜、山の狸が園遊会をやって盛に舞踏します。その歌に曰く、来いさ、としの夜で、御山婦美も来まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平の体である。「この天女は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣を着て琵琶を弾いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔しある所に一人の天文学者がありました。ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁む寒さも忘れて聞き惚れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸に霜が真白に降っていました。これは本当の噺だと、あのうそつきの爺やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊りの十六小女郎、親がないとて、荒磯の千鳥、さよの寝覚の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何です」と迷亭は無暗に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」 主人は不満な口気で「第一気に喰わん顔だ」と悪らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背だね。猫背の鼻は、ちと奇抜過ぎる」と面白そうに笑う。「夫を剋する顔だ」と主人はなお口惜しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝しに逢うと云う相だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神さんにいつけられますよ」と注意する。「少しいつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分引き掻かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑するな。貴様なぞは知るまいが昔しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶な黒木綿の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎じゃございません」と細君うまく責任を逃がれる。 主人は伯父さんと云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境に入ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜も入ったものじゃないのに当人は全く克己の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差し合のない返事をする。「此年の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会があるからそれまでに間に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候えども少々大きく候間、帽子屋へ御遣わしの上、御縮め被下度候。縮め賃は小為替にて此方より御送可申上候とあるのさ」「なるほど迂濶だな」と主人は己れより迂濶なものの天下にある事を発見して大に満足の体に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂で朱子学か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭しくちょん髷を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋を撫で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳もなく笑う。「そりゃ嘘ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺が御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が上わ手でさあ」「あなただって御負けなさる気遣いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。 吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷の金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人の家で実業家が話頭に上った事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻図らずも鼻子の訪問を受けて、余所ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美を想像し、またその富貴、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神さんやら、二絃琴の天璋院まで買収して知らぬ間に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔の中に安置している女の事だから、滅多な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭がなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援けを与える便宜は尠かろう。して見ると可哀相なのは首縊りの力学を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家に寄寓する猫で、世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を殊にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固より尻尾の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴な美挙だ。人の許諾を経ずして吾妻橋事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴する以上は、車夫、馬丁、無頼漢、ごろつき書生、日雇婆、産婆、妖婆、按摩、頓馬に至るまでを使用して国家有用の材に煩を及ぼして顧みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日とも云わずこれから出掛けようと勇猛精進の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これは愚だ、やめようかしらんと上り口で佇んで見た。 しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨が来るかと待っている時黒雲共隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭に相互の思想を交換する技倆はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就するのはそれ自身において愉快である。吾一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。 向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面を吾物顔に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢に構えているんだろうと、門を這入ってその建築を眺めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯の勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入り込む。見ると漆喰で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の神さんが立ちながら、御飯焚きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑だと水桶の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚が云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木だ。構あ事あねえ、みんなで威嚇かしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷い事を云うんだよ。自分の面あ今戸焼の狸見たような癖に――あれで一人前だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭を提げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも大に不人望である。「何でも大勢であいつの垣根の傍へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。 猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に磬を打つがごとく、洞裏に瑟を鼓するがごとく、醍醐の妙味を甞めて言詮のほかに冷暖を自知するがごとし。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助も、飯焚も、御嬢さまも、仲働きも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾を掉って、髭をぴんと立てて悠々と帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能である。草双紙にある猫又の血脈を受けておりはせぬかと自ら疑うくらいである。蟇の額には夜光の明珠があると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が心太を踏み潰すよりも容易である。この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝してニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ馳け出す。なるほど天地玄黄を三寸裏に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾を環る事七度び半にして草臥れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の裏で鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を凝らす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」と例の金切り声を振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちと懲らしめのためにいじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木ピン助や福地キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田君の生国は分らんが、妙な名前の人間ばかり揃った所だと少々驚いた。金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います」「どうせ碌な教師じゃあるめえ」あるめえにも尠なからず感心した。「この間ピン助に遇ったら、私の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶は英語で何と云いますと聞かれて、番茶は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方あいつの事だぜ」「あいつに極っていまさあ、そんな事を云いそうな面構えですよ、いやに髭なんか生やして」「怪しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あん